続moss

「コケ」という言葉は一般にはいろいろな植物群のものを含めて、小さくて、あまり目立たないものを総称している。(井上浩『フィールド図鑑 コケ』東海大学出版会、1986)

いつも行くスーパーの店内で誰かに呼び止められた。見ると高校の同級生だった。卒業以来で、よく気づいたなと思う。向こうはあまり変わっていなかった。職場が近いらしく、これから帰るところだという。ちょっと立ち話。レジでまた会ったので、スーパーを出て歩きながら話す。もう結婚して子供もいる、去年の経済危機で小さな会社をクビになった、節約のために自転車で通勤しているのだと言いながら、ふいに立ち止まって、道路沿いに止めてあった赤いママチャリの鍵を外した。

ステンレスの流しに水滴が落ちる音が台所から続いている。蛇口を固く閉めても止まらない。日常のほつれと言うと大げさだけど、こういうのはある時にはけっこうなダメージになる。高校の社会の時間に、何かの話の流れで、というか先生にしてみたらそこが落としどころだったのかもしれないけど、拷問の話になった。いちばんつらい拷問はということで先生が言ったのは、暗く無音の部屋で人を仰向けに寝かせ、そのおでこに水滴をポタッ、ポタッと垂らし続けるというものだった。

今日は扇風機の掃除をした。いつもなら掃除をするのはシーズンが終わって押入にしまうときだけだったと思うけど、今年は部屋にいる時間が多くて、クーラーもあまり使っていないせいか、扇風機の埃がすごく目立つようになっていた。

食材を買うとき、このところ以前にも増して、値引きされたものを選んでいる。しかし今日は39円のもやしと5%引きの37円のもやしがあって、つい39円のほうを買ってしまった。そういえば「1円を笑う者は1円に泣く」という格言を最近あまり聞かなくなったなと思った。

磯崎憲一郎『終の住処』(新潮社)を読んだ。ここしばらく建築について考えることが多かったせいか、この小説の意志の強さに対応しづらい。建築の無意識的・環境的な現れ方に対して、この小説は読者に意志を示してくる。藤森照信の「建築に力があるとすれば、今も昔も“字を読まない人にも分かる”という一点でしょう」(「建築にしかできないこと」『建築と日常』No.0)という言葉が実感される。

むかし『アメリ』(2001)という映画を観た女の人が「アメリは私だ!」と言っていて、僕はふーんと思ったものだった。今日、本を読んでいて、なぜかそんなことを思い出した。ユングの「内向的思考型」についての解説。

何しろ、重要なのは、「主観的理念の展開と叙述」にあり、あたかも外的事実のうちから自分の抱く理念がおのずと「立ち現れてくる」ようになれば、課題は成功を収めたという具合に感じ取られているわけである。ともかく、ここでは、事実は、自分の抱く像の中に、「無理やり押し籠める」という形で処理される危険が纏い付くわけである。「理論のための理論」が作られてゆくことになりかねないわけである。こうした傾向の強い内向的思考型の代表として、ユングはカントを挙げている。いずれにしても、内向的思考型では、「深化」が求められ、「拡大」は求められない。そのために、こうした人間は、客観的状況との関係が薄れ、時には自分は「余計者」ではないかと感じたり、或いは他の人から「邪魔者扱いされて直ちに撥ね付けられている」のではないかと、自分を感じたりする。実際、こうした人物は、「実務的才能」を欠いていることが多い。こうした人物が主観的に「正しく真実」な著作を著したときには、「他人はその真理の前にただ頭を下げるべきだ」と思い込み、誰か有力な人物を味方にしようなどとは、毛頭も考えず、およそ宣伝が下手である。だから、専門仲間の「好意」を獲ようともしないために、こうした人物は「いやな経験」をするのが落ちである。ともかく、内向的思考型は、理念の追求において、「頑固、強情で、他人に左右されない」。問題を考え始めると、彼はこれをやたらと「複雑にし」、したがって由々しい事態に捲き込まれる。つまり、自分の考えは明瞭でも、それが「現実的世界」のどこに帰属するのかが、不明瞭になってくるわけである。そのために、彼は、「名誉心の強い女性の犠牲」になったり、「童心を持った人間嫌いの独り者」になったりする。往々にして彼の外的振舞いは「ぎこちなく」、きわめて慎重かと思えば、途方もなく無頓着で、子供っぽい素朴さを持つ。要するに、こうして、こうした人物は、あらゆる点で、「孤立してゆく」ことになる。
───渡邊二郎『芸術の哲学』ちくま学芸文庫、pp.302-303

『Architekita』1号を読んだ。東京芸大の学部生が発行したフリーペーパー。記事の内容そのものは特におもしろくもないのだけど、誌面から立ち現れる空間をきちんと手なずけている感じがあって、次に期待が持てる。ただ、あまりふざけてみせるのはよくないかもしれない。なにか正統な価値観に対して斜に構えて批評性を獲得するようなやり方には、僕も惹かれるところがなくはないけど、建築は学としてそれなりに基盤がしっかりしているので、そこを茶化すような振る舞いをしてなお本質的な魅力を維持するにはよほどの知性が必要になる。大体は作り手の「オレッてばこんなことまでやっちゃうんだぜ」という雰囲気が前面に出てしまい、見る人が見ればみっともない。自戒を込めて。

ある件で、仕事関係の多くの人にBccのメールを送った。よくBccで送られてくるメールに「Bccにて失礼します」と書いてあるけど、Bccで送るような連絡事項をBccで送るのは特に失礼だとは思わない。Bccで送られたほうが個人宛のメールよりも返信に気兼ねすることがないだろうし。むしろ「Bccにて失礼します」というような謝罪のための言葉は、Bccで送ったら失礼な気がする。

今年も半分過ぎた。今年は特に早く感じる。いろいろ忙しくしていて時間があっという間に経っていく、というのとは反対で、中身はスカスカなのだけど、あまりにスカスカすぎて、その焦りが時間を早く感じさせている。最近とりあえず一段落した仕事はきっと誉めてくれる人も多いだろうけど、でもそうだとしても、やっぱりそれは想定内の反応なのだ。むしろそもそもその想定あってこそという、基本的に僕の消極性に根ざした仕事だから(表向きはそうは見えないだろうけど)、それでいい気になってはいけないのは分かりきっている。

カフカ『城』(前田敬作訳、新潮文庫)を読んだ。主人公が測量士であることももしかしたら関係するのかもしれないけど、小説全体にわたって、空間を描く運動が強く感じられた。それは物理的な空間ではなくて、「人と人の間」、ということは「人間」が描かれているということでもあるだろうけど、その動的で不安定な空間が、権力や制度の磁場のなかで、絶えず立ち現れては移り変わっていく。