続moss

「コケ」という言葉は一般にはいろいろな植物群のものを含めて、小さくて、あまり目立たないものを総称している。(井上浩『フィールド図鑑 コケ』東海大学出版会、1986)

東京工業大学百年記念館で、坂本一成建築展「日常の詩学」のシンポジウムを聴いた。まず坂本氏の基調講演があり、その後、八束はじめ氏、坂牛卓氏との鼎談、司会は奥山信一氏。以下、興味本位の感想。八束氏は現代の住宅建築にはまったく興味がないと公言しているのでこの人選はすこし意外だったけど、鼎談はほとんど八束氏のシナリオどおりに進んだように思える。概念の建築/生活の建築の拮抗としての坂本建築を、厳密に概念で建築をつくったヴィトゲンシュタインウィーン学団ハンネス・マイヤーと比較し、その上で当時その近くに身を置きつつ概念のみの建築に疑問を抱き、生活の建築として家型の重要性を言ったヨーゼフ・フランクとの類似を指摘する……。そうした話の切り口は、様々な読解の広がりを提示する八束氏ならではのものだろう。ただ、僕がこの人選に感じた違和感や、鼎談の冒頭にあった八束氏の「坂本一成を相対化する」という宣言からすると、そのリニアで明快なストーリーにやや物足りない気持ちもあった。八束氏には『批評としての建築』(彰国社、1985)という著書があるけれど、近年はもっぱら「非批評としての都市」に関心が移ったという。建築の設計活動もしていないらしく、プロフェッサー・アーキテクトとして批評的な住宅の設計を続ける坂本氏とは正反対の姿勢であるように見える。八束氏が坂本氏を相対化するというなら、そうした坂本氏の現代社会における立ち位置との関連のなかで作品を捉える必要があるのではないだろうか(それは八束氏自身の立ち位置を問うことにもなるだろう)。現在の活動が正反対であったとしても、おそらく両氏は社会における建築の根本的、倫理的な意識を共有しているはずで、身も蓋もないような話にはならないだろうし、生産的な会話を成立させるだけの強度が坂本氏の作品にはあると思う。俗な話はしたくない、というふたりではあるかもしれないけど……。そんなことを思っていたら、終盤これも八束氏のシナリオどおりに現代の日本に話が近づいてきた。70年代から80年代にかけて、多くの建築家がモダニズムとの距離で建築を考えていたのに対して、坂本氏はそうしたイデオロギーから外れ、自身の身体感覚に比重を置いていた、と。さらにいよいよ最後、まさに現在的な状況として、設計者の身体感覚に依拠して空間の「気持ちよさ」を直接テーマにしたような建築がもてはやされているけれど、そこには坂本建築のような概念と生活との拮抗がなく、似て非なるものであって、その「気持ちよさ」もわからないではないがはっきりと嫌悪感を抱く場合すらある、と言う八束氏がその同意をやんわりと坂本氏に求めて鼎談は終わった。八束氏が言うのはおそらく妹島和世までを含むだろうけど、八束研究室では70年代以降の住宅建築について公的に話題にしてはいけないことにさえなっているらしいし、これはこの鼎談のオチをつけるため、氏の現代住宅観において「カワイイ建築」だけに罪を着せた気がしないでもない。