続moss

「コケ」という言葉は一般にはいろいろな植物群のものを含めて、小さくて、あまり目立たないものを総称している。(井上浩『フィールド図鑑 コケ』東海大学出版会、1986)

夏目漱石の『それから』(1909)を読んだ。就職もせずに親のすねをかじって暮らす男の話。なまじっか学識があるだけに、観念と現実とのあいだで色々と思い悩んでいる30歳。漱石を同時代として受容することは不可能だけど、逆に「100年前の文章なのに(同時代のものより)これだけ身近に感じられる」という感慨を味わうことはできる。

代助は昔の人が、頭脳の不明瞭な所から、實は利己本位の立場に居りながら、自らは固く人の爲と信じて、泣いたり、感じたり、激したり、して、其結果遂に相手を、自分の思ふ通りに動かし得たのを羨ましく思つた。自分の頭が、その位のぼんやりさ加減であつたら、昨夕の會談にも、もう少し感激して、都合のいゝ効果を収める事が出来たかも知れない。彼は人から、ことに自分の父から、熱誠の足りない男だと云はれてゐた。彼の解剖によると、事実は斯うであつた。──人間は熱誠を以て當つて然るべき程に、高尚な、真摯な、純粋な、動機や行爲を常住に有するものではない。夫よりも、ずつと下等なものである。其下等な動機や行爲を、熱誠に取り扱ふのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、然らざれば、熱誠を衒つて、己れを高くする山師に過ぎない。だから彼の冷淡は、人間としての進歩とは云へまいが、よりよく人間を解剖した結果には外ならなかつた。彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味して見て、其あまりに、狡黠くつて、不眞面目で、大抵は虚偽を含んでゐるのを知つてゐるから、遂に熱誠な勢力を以てそれを遂行する気になれなかつたのである。と、彼は断然信じてゐた。(『漱石全集 第四巻』岩波書店、1966、pp.536-537)

こうして部分だけ抜き出すと、ここに書かれていることがそのまま漱石の意見だと思われてしまうかもしれないけど、もちろんそれはあるにしても、実際にはもうすこし相対化された眼差しが含まれている。それも踏まえたうえでの身近ということ。