続moss

「コケ」という言葉は一般にはいろいろな植物群のものを含めて、小さくて、あまり目立たないものを総称している。(井上浩『フィールド図鑑 コケ』東海大学出版会、1986)

鷲田清一メルロ=ポンティ──可逆性』(講談社)を読んだ。メルロ=ポンティ自身の著作を読んだことがないので細かいところは飛ばしてしまったけど、当然なのかどうか、アーレント木村敏などとも繋がる感触があり、今度は本人の本を読んでみようと思った。

くりかえして言えば、メルロ=ポンティの《現象学》を貫いていたのは、西欧の伝統的な思考法のなかでは亀裂や裂け目とみえるもの、たとえば主観と客観のあいだ、自己と他者のあいだ、あるいは言語と知覚、思考と存在、理性と感覚、自然と文化といった襞のあわいに深く入り込んでいって、そうした対立的な意味の出現を、その「生まれいずる状態において」とらえようという意志である。(p.35)

つまり知覚をはじめとする主体の経験を、それをいわば対象のがわに超越したところに見いだされる客観的世界のさまざまな構成契機間の相互関係として解読しようとする経験主義ないしは自然主義を一方で斥けるとともに、他方でおなじその経験を、主体をいわば内がわに超越したところに見いだされる理性や知性一般の認識装置のほうから解読しようという主観主義や観念論的な思考をも斥けようとするものである。そのどちらでもないあいだの場所、そういう思考の場所をいまわれわれは《両義性》としてとらえたわけである。(p.82)

〈スティル〉という概念が普遍的なものと特殊的なもの、形式的なものとを媒介するよう機能するものを表現していることについてはさきにすこしふれたが、これは世界とその存在の生成をめぐって、主観的な契機と客観的な契機とを交差させるようにはたらくものとしても構想されており、それは世界の自己構成でも主観性による世界の対象化的構成でもなく、さらには主観的なものと客観的なものの関係の自己組織化という二元的な物言いすらふさわしくない、一種の《構造的な出来事》とでも規定できるような世界生成の水準をさし示しているように思われる。(p.197)

メルロ=ポンティのいう制度は、法律や統治機構や行政機関といった政治的・社会的な規則や施設を意味する一方で、言語や芸術、家族関係、ファッションなど、われわれの生を編んでいる物質的な媒質ないしはその様式をひろく意味する。しかしこうした制度は、われわれの生の「客観的」条件、あるいは「外的」拘束としてイメージされてはならない。制度〔化〕を、われわれの社会生活のなかに内蔵された意味生成の装置をたえず設立(=制度化)しなおしてゆく一つの間主観的な「実践」としてとらえることが、ここではポイントとなる。事実的なものによって構造づけられつつ不断に新たな構造空間を創出してゆく実存の運動、保存と乗り越えの弁証法としてとらえることである。(p.218

こうした沈澱と再構造化の弁証法が、われわれの状況としての歴史的世界を形成する。いいかえれば、「制度化する主体」としてのわれわれは、「鍵をもたない」、つまり偶然的な出来事によって編まれ一義的に見通すことを許さないような、歴史的世界の生成のさなかに投げ込まれ、それを引き受け、それに関与しつつ生きている。(p.220)